街の空気が冷たく澄み渡る冬。
オーケストラの中で、その小さな楽器が「チーン」と鳴った瞬間、張り詰めた静寂が美しい色彩を帯びるのを感じます。
私たちがその音色にたどり着くまでの道のりは、決して煌びやかなものではありませんでした。
それは、泥臭い油と鉄の匂い、そして熱い想いのバトンをつないだ、この街の無骨な職人たちの5年越しの物語です。
「楽団の音」が消えてしまう前に
ことの始まりは、ある楽団の奏者の方からの切実な相談でした。
「楽団で使ってきたトライアングルが使えなくなるかもしれない」
その方が手にしていたのは、80年代以前に作られたヴィンテージの名器。その音色は素晴らしく、まさに「楽団の声」そのものでしたが、長年の酷使で金属疲労を起こし、いつその響きを失ってもおかしくない状態でした。
「今の新しい製品にはない、あの鉄の倍音。あれに代わるものを、用意してもらえませんか?」
それは単なる楽器の注文ではなく、「現代の技術で、失われた過去の名器を超えてほしい」という、祈るような願いでした。
新幹線の職人が挑んだ「鉄の深淵」
最初にその難題に挑んだのは、私たちの盟友であり、同じものづくりの誇りを持つ「有限会社カツラシマ」の職人たちでした。普段は新幹線の部品など、寸分の狂いも許されない精密加工を手掛けるプロフェッショナル集団です。
「鉄を響かせたい? なら『焼き入れ』はマストだよ」
彼らはそう言って、鉄を真っ赤な炎の釜へと投じました。しかし、そこには長い苦難が待っていました。
硬すぎれば振動が止まり、柔らかすぎれば音が鈍る。
彼らは4年間で200本以上もの試作を繰り返し、炎と対話しながら、鉄の芯に「粘り」という命を宿すことに成功しました。
そうして生まれたのが、奇跡のような倍音を持つトライアングルの「原石」でした。
託されたバトン。「音を殺さずに、守ってくれ」
しかし、ここで一つの大きな壁が立ちはだかります。
「鉄」は、そのままではすぐに錆びてしまうのです。
錆びれば、せっかくの音色は失われます。かといって、錆を防ぐために一般的な厚いめっきを施せば、まるで毛布を被せたように、職人が魂を込めた繊細な響きをミュートしてしまう。
カツラシマさんの職人たちは、完成したばかりの「原石」を手に、私たちの工場を訪れました。
「最高の音はできた。あとは、頼んだぞ」
新幹線の部品を作るほどの技術者たちが、5年の歳月をかけ、炎の中で掴み取った「想いの結晶」。
そのバトンを受け取ったのが、私たち今井メッキ工業所でした。
技術者としての葛藤と、覚悟
めっき職人として、私たちは常に「錆びさせないこと(=防御)」を第一に考えてきました。しかし今回求められたのは、「守りながら、解き放つ」こと。
「音を取るか、耐久性を取るか」
私たちの中で、技術者としての葛藤がありました。
しかし、奏者の方の「音のためなら、多少の不便さは厭わない」という言葉、そして何より、カツラシマさんが作り上げた「最高の鉄」を無駄にはできないという想いが、私たちの覚悟を決めさせました。
職人のプライドが共鳴する「極薄の被膜」
私たちが導き出した答えは、常識を覆す二つの特別な仕上げでした。
一つは、素材の響きを最大限に生かすための「極薄のニッケルめっき」。
通常の防錆めっきとは異なるアプローチで、被膜を限界まで薄くコントロールし、鉄の振動を一切妨げないギリギリのラインを攻めました。
「これなら、響く」
カツラシマさんの精緻な加工技術と、私たちの表面処理技術。
二つの工場のプライドがカチリと噛み合った瞬間でした。
100年後のヴィンテージを目指して
完成したトライアングルを手にした奏者の方は、「楽団の音として、もう定着しています」と微笑んでくれました。
5年の歳月、200本の試作。
新幹線の部品を作るようなカツラシマさんの精度と、音色を守り抜いた私たちのめっき技術。
その全てが、この三角形の鉄の棒には詰め込まれています。
私たちが目指したのは、単なる工業製品ではありません。
今、この世に産み落とされたこの楽器が、20年、50年、100年と叩き込まれ、いつか「21世紀のグレート・ヴィンテージ」と呼ばれる未来。
この街の工場同士が手を取り合い、情熱を注いで作った音が、今日もホールの空気を震わせている。
そう思うだけで、日本のものづくりの灯は決して消えていないのだと、胸が熱くなるのです。
有限会社カツラシマ
〒131-0041東京都墨田区八広6-34-8
TEL:03-3619-1351/FAX:03-3612-2288
